セロひきゴーシュです。

いまはもう消えてしまった客車寝台列車「あけぼの」で津軽に入ったのは、2月の終わり。 津軽平野は目の届くかぎりの銀世界でした。いろいろ写真も撮りましたが、 小さなデジカメでその感動を表現することは出来ませんでした。ここには、 ストーブ列車で知られる津軽鉄道でもらったチラシの写真を1枚だけ紹介しておきます。 私が見た津軽の冬は、 まったくこのチラシのとおりの景色で、津軽の冬をあまさず表現してあり、 さすがにプロの仕事だなと思います。


冬景色もさることながら、私が感動したことのもうひとつは、津軽には、 まだ津軽ことばが生き残っている、ということでした。 津軽半島の日本海沿岸を海沿いに走るJR五能線の駅、鰺ヶ沢駅の待合室のベンチで、 私の隣に座った地元のお年寄りが、同じような地元の人たちと話し合っていたのです。 しかし、私にはその会話の内容はおろか、一言も理解できませんでした。 これが津軽のことばなのです。(鰺ヶ沢町は、相撲解説の舞の海さんの出身地でした)

乗り鉄の元祖と言われ、多くの著書がある故宮脇俊三さんは、 ベストセラーになった「国鉄2万qの旅」の中で、 「津軽地方の方言は、もっとも難解である」と書いていますが、 その津軽ことばを、ナマで聞けたわけです。急いでカメラの動画機能で録音しました。 40秒ほどの録音です。話をしているお年寄りも、 ことばと同様に、とてもいい雰囲気だったので、無断でショットも載せます。

帰宅してから、このお年寄りの話の内容を弘前にご親戚のある方に 「通訳」をお願いしたところ、その弘前の方もすぐには分からず、 病院の待合室やデパートの食堂などで出会った人びとに聴いて貰って、 ようやく五所ヶ原市の人が解読してくれたそうです。たいへん面倒をかけてしまい、 ここでお詫びして、解読結果はこの文の終わりに載せておきます。

私は「ことば」に関心を持っています。言語関係の本を読んでいると、 「国語」「言語」「方言」などに関する事象の多様性に驚きます。 複雑な内容を簡略化するのは難しいことですが、あえて言えば、 「国語」と「言語」は別のものであり「言語」は「方言」の集合体であるそうです。 「言語」とは、そのことばの話者同士の意志が「通じる」のですが、違う言語の混在する地域では、 互いの意志が通じず、往々にして(ウクライナのように)国際紛争にまで発展することがあります。 また、伝統的な「言語」の話者が無くなったり、少数になって、 その「言語」が消滅してしまうことが近年非常に多くなってきました。 日本でのアイヌ語がそうです。明治政府は日本の近代化のために方言を弾圧しましたから、 日本人は「標準語」という言語を使うようになり、「方言」を一段下にみる無意識的な習慣があります。 さらにマスメディアの影響で、若い世代の日本語から、いま「方言」が消えつつあります。

ハワイでは、その対策として、ハワイ語しか使わない学校を設立し、 一旦絶滅したハワイ語が戻りつつあるそうです。沖縄の「しまくとぅば」も復興の動きがあります。 津軽・鰺ヶ沢で津軽ことばを話す人びとが無くならないことを願っています。



       ∗ 駅の待合室で聞いた津軽ことばの概略。1週間まえに全国的に
          大雪になったことからの話題。


                   「雪が屋根に積もって大変だなあ、雪を
                    捨てなけりゃならないが、捨てる場所に困る。


                     道が広いところの家はいいけど、私の家は、
                    家と家との間が狭いから捨てる場所がないよ」




5/13/2014





ライラックです。

トイレの話などをするのはいささか気が引けますが、 和洋を問わず世界中にはユニークなトイレが沢山あるようです。そんな中で私が出会って、 今後二度とお目にかかることができないトイレのお話を二つばかりしたいと思います。

ひとつは須川温泉のトイレです。
須川温泉 と言ってもこの温泉がどこにあり、どんな温泉かご存知の方はあまりないかもしれません。 この温泉は岩手、宮城、 秋田の3県にまたがる栗駒山の山頂近くにある湯量の豊富なことで知られている一軒宿の温泉です。
太平洋戦争は始まっていましたが、まだ戦争の影がそれ程色濃くない頃でした。 父が胃潰瘍を患い入院した後、主治医の先生の勧めもあって、 胃腸病によく効くと言われているこの温泉に2週間ほど湯治のために滞留したことがありました。 そこに私も連れて行ってくれたのです。

昔からこの温泉は湯治場として有名な温泉だったようです。 湯元から噴き出たお湯が滝のように勢いよく流れ出し、川となってとうとうと流れ行く様[写真]は、 幼かった私にも忘れられないものとして残っています。夏だったからでしょうか、 どの客室の戸も開けっぱなしになっていて、お部屋の中が丸見えだったのも面白い光景でした。

父と二人でお散歩をしたり、お風呂に入ったりという毎日には限度があったようです。 私はいつの間にか勝手に宿の中を歩き回り、従業員のおじさんやおばさんたち、 湯治客の人たちとたちまち仲良しになり、お手伝いのまねごとをしたり、 ちゃっかりよそのお部屋に上がりこんで、おやつまでいただいたりするようになり、 無聊をかこっている湯治客のペットのような存在になっていました。
幼い子どもを宿の中だけとはいえ、野放しにしていた父。のんびりした時代だったのでしょうね。
そんな父が湯治客の人たちから『さすが東京の子は田舎の子とは違うなぁ。』 などと言われながら、毎日あっちの部屋こっちの部屋と、 頭を下げてまわるのが大変だったと後に笑いながら話してくれたことがありました。

しかし、用をたしたい時だけは必ず父の所に急いで戻りました。 ここのトイレは便器の下は便槽ではなく、かなり下をお湯の川が流れているのです。 この川は幅が1m以上もあり、急流で下を見ると吸い込まれそうで、 怖くて父に支えていてもらわないと用がたせなかったのです。 落としたものはあっという間に視界から消えていってしまいます。

当時はふもとの集落の人たちが、この川下で野菜を洗ったり、洗濯したりしていたに違いありません。 でも、その人たちが使う頃にはきっと見た目には何ら問題がなかったのでしょう。 今ならこのようなことは到底許されるはずがありませんが、 あの時代にはごく自然に受け入れられていたのかもしれません。 当然ですが、衛生観念も今ほど高くなく、細かいこと等には無頓着な時代でした。

もう一つは迎賓館赤坂離宮のトイレです。
勿論私が高貴な生まれや特別な人であったわけではありません。 実は第二次大戦後、赤坂離宮の敷地や建物が皇室から国に移管され、 国立国会図書館 (1948-61年)だった頃があったからです。
たまたま、その頃私は大学生でした。調べ物をしたり、静かな所で勉強したり、 読書をしたりしたい時、私は図書館に行くのが常でした。 中でも上野の国会図書館[写真]は本が沢山揃っていてよく通ったものです。
その日も上野の図書館で調べ物をしていましたが、どうしてもお目当ての本がなかったのです。 すると、そこの司書の方が赤坂の国会図書館を紹介してくださったのです。

私は 迎賓館赤坂離宮 (写真下)の門前に立った時、 ここが図書館だとは信じがたく、何度も何度も看板を見直しました。上野の図書館の建物とは雲泥の差だったからです。 門には守衛さんがいて、図書館に来た旨を告げると簡単に入れてくれました。
広い中央の道をしばらく歩き、 宮殿のような建物の中に入るとすぐに大理石の広い階段と赤いじゅうたんが目に入りました。 まるで映画の中のワンシーンに自分がいるような感じでした。

階段を上るとすぐ右手の小さい部屋が雑誌などを閲覧する所で、 普通の閲覧室[写真]はすぐ左の大広間です。 シャンデリアがいくつもぶら下がっていましたが、 中は薄暗い感じです。閲覧室は シーンと静まり返っていて咳払いひとつ聞こえません。 私は空席を見つけて座りましたが、あまりの豪華さに圧倒され、天井を眺めたり、 壁を眺めたりきょろきょろしながら、田舎者の常で何となく落ち着きをなくしていました。
『そうだ。私は調べたいことがあってここへ来たのだ。』 と気がつくまでには少々時間を要しました。

本題からはずれましたが、用足しをしたいと思い踊り場に出ると、 親切にも『お手洗い』と書いてある矢印が見えました。その矢印に沿って階下に降りること3・4分。 いったい地下何階なのか迷路を歩いてきたようで狐につままれたような感じでした。
扉も豪華でしたが、中を開けて二度びっくり。広い!畳2枚分以上はあったでしょうか? そこに畳が敷いてあったのです。さすがに便器のまわりには畳がありませんでしたが、 その便器は漆塗りで蒔絵が施されていたのです。

私の父の生家のトイレは外トイレでしたが、かなり大きく立派な建物でした。 父が子どもの頃には畳が敷いてあったそうですから、 畳敷きのトイレは一般の家屋にもあったようです。 私が畳敷きのトイレを見たのはその時が初めてでした。その広さといい、周りの装飾といい、 いったいどんなお方がどのようにして使われたのかしら?と、 しばし往時の高貴な方々へ思いを馳せたりしたことでした。

その後、何回か赤坂の国会図書館に行きましたが、 最初に行ったお手洗いには二度と行くことはできませんでした。 道順どおりに行くと、やや広めの板敷で普通の漆塗りのお手洗にたどり着くのです。

この赤坂離宮を図書館等として開放したために傷み方がひどく、 迎賓館として使用できるように改修するのに5年もの年月を要したとのことです。 あの広いお手洗いが幻のお手洗いになったのにも深い訳があったのかもしれないと思ったことでした。

5/6/2014





セロ弾きゴーシュです。


 メロディはドイツ民謡ですが、日本語では「夜汽車」として小学4年の音楽教科書に載せられて知られる歌です。 私はこれをカノン(輪唱)にして歌った記憶があります。カノンだから2人以上で歌ったはずで、 やはり学校で習ったのかもしれません。しかし、私の小学4年は日本敗戦の年で、 教科書などはありませんでした。戦後教育史に名高い「墨塗り教科書」を実際に使った世代ですから。

おそらく、私が大人になってから聞き覚えたのでしょう。 いずれにしろ、この歌は、今も50歳くらいから上の人たちの心のどこかに、 旅愁を呼び覚ますものとして残っているように思います。
子どものころ、幡豆でも、しずかな夜更けに東海道線をとおる夜行列車の音が山を越えて聞こえてくることがありました。 そんなとき、大人たちは「汽車の音が聞こえるで、雨が近いかな」と言っていたものです。

この歌詞は遠くを通り過ぎてゆく夜の列車を見送っている感じですが、私は、 夜汽車に乗って旅をしているような気持ちにもなります。それも、 東海道線を走った夜行電車列車の「ながら」のような近代的なものでなく、機関車にひかれる客車列車での旅です。

電車も客車も同じだ、と思っている人も多いでしょうが、走行中の静かさについては、客車の方がずっと静かです。 現在蒲郡から乗るJRの列車は全部電車ですが、試しにモーターのついていない車両に乗ってみるとそれが分かります。 区別は、屋根にパンタグラフがなくて、車両側面の車種記号が「サハ***」で始まるのが付随車です。 パンタグラフのある車両の間にはさまれています。そんなわけで、客車寝台列車はとても静かです。

私は、2月のおわりに、本州内を走る最後の夜行客車寝台「あけぼの」に乗って、冬の津軽に行きました。 上野駅発が21時すぎ。真夜中の日本列島を横断して日本海に出て、青森に向かう13時間ちかい旅です。
山越えのときは深い雪をかき分けるように抜けていきます。向こうの山の端にかすかに灯が見えたりするだけで、 まったく動くものがない中をコトン、コトン、と走ります。すこし灯が増えて近くなってくると、 寝静まった深夜の町を通りすぎて、また雪の中です。月が出ていました。それはまったく非日常的な時空間でした。

秋田の手前から夜が白みはじめ、夜行列車ではなくなって、津軽に入りました。津軽の旅はまた次の機会に書きますが、 先月3月14日を最後に、この「あけぼの」が廃止となったことだけは書いておきましょう。





4/26/2014



 
今日はあらかじめ電話で予約していた11時11分発のくま川鉄道の観光列車「田園シンフォニー」【写真】 に人吉から乗車します。この列車は3月から導入したばかりの新車両で、 車内は球磨産ヒノキ材をふんだんに使用した落ち着いた雰囲気でとても素敵でした。 くま鉄は平成元年にJRから第三セクターで運営、人吉温泉駅と湯前駅間の14駅、 球磨(くま)焼酎を育んだ球磨盆地の田園地帯、全長24.8キロをおよそ1時間で運行。
車両は四季をイメージした「冬」、「秋」、「春」の3両編成。この日は予約した家族連れ、 グループ等の乗客で満席でしたが、ゆったりスロー運行の観光案内、途中駅での停車時間を設けて散策タイムありと、 さまざまなおもとなし。終点、湯前駅構内では沿線「おもてなし隊」によるお出迎えサービス【写真】があり、 乗客へ地元手作りのらっきょ漬けのプレゼントをいただきました。 湯前駅より折り返し運転、再び人吉駅に戻り、いよいよ14時38分発の「SL人吉」に乗車です。

「SL人吉」【写真】は熊本・人吉間を1日1往復、全車指定席で、運よく前日に指定席がとれました。 列車は3両編成で、1号車、3号車にパノラマビュー展望ラウンジ【写真】、2号車にはビュッフェが整い、 エメラルド色の球磨川の渓流沿いを走る列車の車窓風景は、見ていて飽きません。
沿線の縁起のよい駅名として有名な「一勝地(いっしょうち)駅」では10分間の停車タイム、 特産品のホーム販売、乗務員によるフォトサービスなどのおもてなしがありました。 終点の熊本駅付近に差し掛かると、同時刻に到着予定の豊肥本線の阿蘇・ 熊本間を走る特急列車 「あそぼーい」 と並行して走行、互いの乗客同士が窓ガラスにメッセージボードを貼り付けエール交換【写真】 するなど約2時間40分という長さを感じない楽しい時間が過ぎ、定刻17時13分に熊本駅に到着。 今夜の宿は熊本、明日は、九州横断特急で別府まで移動します。

翌朝、熊本城を急いで見学を終え、熊本駅11時38分発の豊肥本線「九州横断特急」【写真】に乗車。 真っ赤なボディで、熊本から別府まで九州のど真ん中を約3時間で駆け抜け、途中、 雄大な阿蘇山をバックに世界有数のカルデラ高原を走り抜ける車窓の風景は、まさに絶景でした。
途中、不朽の名作「荒城の月」を作曲した滝廉太郎の故郷、豊後竹田駅に13時30分到着し、途中下車。 滝廉太郎が少年期によく遊んでいた岡城跡を訪ねました。この日はちょうど岡城桜まつり【写真】が開かれ、 駅前では大名行列の催しもあり多数の観光客で賑わっていました。
2時間ほど滞在し、再び豊後竹田駅から列車に乗車、別府駅に到着したのは16時40分でした。 今晩は、別府に泊まり、明日は別府の地獄めぐりの予定です。

翌朝8時45分、別府駅前から出発する定期観光バス「地獄めぐり」に参加。 ベテランのバスガイドによる「海地獄」「山地獄」「かまど地獄」「血の池地獄」など8か所の地獄を回り、地獄に 落ちることなく無事、11時30分に別府駅に戻ることができました。 これで予定していた九州観光をすべて終え、広島へ移動です。 別府駅を11時53分発の特急「ソニック28号」【写真】博多行きに乗車。 「ソニック」はその名「音速」のごとく、 東九州を走る振子式列車。ブルーメタリックの車体は印象的で、スピードの割に揺れは少なく、 小倉に1時間ほどで到着。小倉からは新幹線のぞみに乗り換え、14時過ぎ広島に到着。
広島では2泊し、世界遺産「宮島」、文学のまち「尾道」【写真】を訪ねました。

今回は鹿児島から約1000キロの列車の旅。自身60年の人生で、1週間に及ぶひとり旅は初めての経験でした。 しかし、九州各地に今でも残る豊かな自然と歴史、文化に触れることができ、 また列車で出会った人々との一期一会も、忘れることのできない思い出となりました。 またいつか、機会があれば、どこか、知らないまちをひとり旅してみようと思っています。


4/21/2014

 

気の向くまま、自由を満喫できるひとり旅。自分好みで好きな場所に立ち寄り、 誰にも気遣うこともなく、ちょっとわがままで、贅沢な一週間の九州観光列車の旅に出かけてみました。

中部国際空港から鹿児島空港まではジェット機で約1時間20分ほど、 到着したのは午後2時15分、あいにくの小雨模様の天気。 空港から市内中心部まではバスで約30分かかり、車窓から見える市街地の風景は、 かつて幕末から明治維新にかけて歴史に名を残した多くの偉人たちの舞台となった南国鹿児島の雰囲気が伝わってくるようでした。 そして今晩の宿、鹿児島中央駅前のビジネスホテルへ。

翌日、午前9時20分にJR鹿児島中央駅から出発する「よかとこ早回りコース」定期観光バスに申込み市内見物。 まず最初は城山周辺の史跡見学。ここは明治10年(1877)、国内最後の内乱・西南戦争で激戦の舞台となり、 明治維新の立役者・西郷隆盛の終焉の地となった場所です。 続いて錦江湾と桜島を望む景勝地として名高い名勝「仙巌園」【写真】の見学。 ここは江戸時代初期に島津19代当主の島津光久の別邸として築造、 ちょうど桜が満開となり錦江湾と桜島を借景にした庭園はみごとでした。 最後にバスごとフェリーに乗船し、桜島へ。 今も噴煙を上げる南岳噴火口から一番近い標高373メートルにある展望所からは桜島の山並みが眼の前に迫り、 錦江湾や鹿児島市街が一望できました。

駆け足の市内観光を終え、JR鹿児島中央駅-吉松駅間を鹿児島本線・肥薩線で運行する特急列車「はやとの風」 【写真】に13時24分に乗車。 車窓から見える錦江湾の桜島を眺めながら、一路、吉松へ。

特急列車「はやとの風」は旅客用車両としては珍しくロイヤルブラック一色に塗装され、 内装は難燃木材を使用し、暖かみのある内装となっています。車中では女性乗務員が乗り込み、 車内のカフェ販売、道中の記念撮影サービスにも気軽に応じてくれました。【写真】

また道中は、明治時代に建築された木造駅舎の残っている大隅横川駅、嘉例川駅で、 列車が約5分間ほど停車し、駅舎の見学、撮影などの乗客サービスぶりは、 さすがJR九州が観光に力を入れていることがうかがえます。 かれい川弁当や築110年の木造舎で有名となった嘉例川駅【写真】は、今や人気観光スポット。 タイムスリップしたような駅舎はどこか、懐かしさを覚えます。

列車は定刻どおり14時56分に吉松に到着。
ここからは車体が「古代うるし色」といわれる観光列車「しんぺい号」【写真】に15時16分乗り換え、人吉へ。
この列車、下り(人吉駅→吉松駅)は「いさぶろう」、 上り(吉松駅→人吉駅)は「しんぺい」と別々の列車名で運行されています。 愛称の由来は、「いさぶろう」が建設当時の逓信大臣山縣伊三郎、 「しんぺい」が同区間開業当時の鉄道院総裁であった後藤新平にちなむものです。
この区間は日本三大車窓の1つに数えら れる霧島連山を望む矢岳越え【写真】、 矢岳(やたけ)駅までの標高差200メートル以上を走行するための日本では珍しいループ線・ スイッチバックで有名な大畑(おこば)駅【写真】を始めとして 車窓の良さに定評があります。 名所では一時停車、徐行運転、 また車内に設置されたモニターで進行がわかるように乗客サービスはいたれり、つくせりです。 また真幸駅では、「真の幸せ」ということでプラットホームにある「幸せの鐘」を乗客がつけるように一時停車し、 私もつくことができました。飽きない数々の車窓風景に1時間20分ほどの時間も、あっという間に今晩の宿泊地の人吉駅に到着。

明日は、くま鉄「田園シンフォニー」、「SL人吉号」に乗車します。次回の観光列車の旅をお楽しみに。


4/15/2014




先日用事があって車で出かけたのですが、ある小学校を通りかかったとき、 パパやママに手を引かれて歩いている子ども達を見かけました。 女の子は可愛らしいお洋服を着ていますし、着物姿のお母様もいます。 その日は小学校(と高校)の入学式の日だったのです。 夫が「桜も咲いているし、入学式はとても日本的な光景ですね」と言いました。

実は私の甥と姪も4月から高校生・大学生です。 入学式の話から、「推薦入試」に合格した姪の話に移りました。 私が「推薦入試って知らなかったけれど、 彼女の場合は競争率が5倍くらいだったみたい」と言うと、 夫が「ハーヴァード大学の合格率を知っていますか」と聞いてきました。 夫はそれについて英字新聞の記事を読んでいたので、口に出たのです。

私が「知らない。10人に1人くらい?」と言うと、夫は「6%未満です」と答えました。 何と100人に6人程というあまりの競争率! 驚いた私は帰宅してから全米の大学別入学競争率を調べてみました。 するとあるサイトでハーヴァードは6%程。 全米の大学の中で一番低い数値、つまり競争率が一番高いことが分かりました。

ちなみにそのサイトで次に値が低かった大学はスタンフォードです。 アメリカ合衆国元大領領のクリントン夫妻の娘、チェルシーが選んだ大学ですね。

ハーヴァード大学がアメリカ最古の大学であること、 名門中の名門であることは知っていましたが、私には全く縁のない世界でした。 でも、姪が大学生になったこと、 一年間予備校に通う合間もレッスンに来た夫の生徒が今年東京大学に入学したこともあってか、 私は夫の一言で俄然ハーヴァードに興味を持ち、その大学のサイトを訪れてみました。

まずハーヴァードの入学許可された生徒数ですが、 2017年卒業予定のクラスで2,047人(入学願書提出者は35,023人)。 「単純に計算して 5.8%ちょっとか」と思いつつ、 興味の向かうままにページをクリックした私でしたが、 さっと目を通しただけで「すごい!」と驚くような事実が目に入りました。

その驚きは、「アメリカのトップクラスの大学とはこういうものなのか!」 という感銘です。

それについては次回に書きます。どうぞお待ちくださいね。

4/8/2014






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